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お寺から始める ココロとカラダの健康塾 #2 「自分を認める」自己肯定感の大切さ

精神科・心療内科医として診療に携わりながら、臨済宗建長寺派林香寺の住職を務める、川野泰周さん。

この連載では、お寺から提供できる「健康」について構想していただきます。

第2回となる今回は、体を健やかに保つためには、まず「自分を認めること」が必要だというお話をお届けします。

「健康」と聞くと、何かを我慢するイメージがつきまといますよね。
でも実は、「自己肯定感」こそが健康を育むうえで欠かせないのだそう。
その考え方は、仏教の教えのなかにもふんだんに盛り込まれています。

心と体の繋がり、そして「お寺でできること」にダイレクトにつながるお話、どうぞゆったりとお楽しみください。

2018.11.26 MON 17:46
構成 増山かおり
PROFILE

川野泰周(かわのたいしゅう)

臨済宗建長寺派林香寺住職/RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長/一社)寺子屋ブッダ理事

2004年慶応義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院精神神経科、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より大本山建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行を行った。現在は寺務の傍ら精神科診療にあたり、マインドフルネスや禅の瞑想を積極的に取り入れた治療を行う。またビジネスパーソン、看護師、介護職、学校教員、子育て世代の主婦など、様々な人々を対象に講演・講義を行っている。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)、『あるあるで学ぶ余裕がないときの心の整え方』(インプレス)などがある。精神保健指定医・日本精神神経学会認定専門医・医師会認定産業医。

■ 現代は自己肯定感が低くなっている時代

前回の記事では、心と体の問題の多くは、人間本来のあり方が、現代の暮らしの中で失われてしまっていることが原因だとお話いたしました。「自律神経失調症」など、原因のはっきりしない体の不調の裏には、心の問題が潜んでいることが、非常に多いのです。そこで、心と体の健康のためのヒントをお届けするにあたって、まず「心」の話から始めたいと思います。

寺務に携わりながら、精神科・心療内科医として診療をする中で、日々感じていることがあります。それは、世代によって「自己肯定感」にかなり大きな差があるということです。
いわゆる団塊世代を含む60代以上の世代と50代以下で、心理的構造が変わっているという現象が指摘されています。戦後の高度成長期を支えてきた世代に比べて、自分自身の価値を他者からの評価に依存してしまう傾向が問題になってきているのです。わたしの感覚としても、受診に訪れる20代の患者さんはその傾向が強くなっていると感じます。

それはなぜかというと、社会的な要請が、大きく変化しているからです。
昔の日本人は会社に忠誠を誓い、国の繁栄のために自分に与えられた役割を果たしてきました。こうした、社会的な欲求を満たしていくプロセスの中で、自分の貢献度や達成感を感じることができたので、自分が認められているという感覚を十分に得ることができました。

ところが現代では、教育の場ではその時代の画一的な感覚を引きずりつつも、いざ就活の場面や社会に出ると、オリジナリティ、自活力、サバイバル力など、今まで言われてこなかった要素が急に求められます。つまり、かつてのような自己肯定感を得ることが難しくなっているのです。これは、かつての世代にはなかったことです。
一つの価値観で目標を定め、生きてゆくことができた世代と違って、現代においては人生の節目節目で、自己の存在を否定されるリスクを孕んだ場面が待ち受けているのです。社会的な欲求を満たすことで達成感や貢献度を感じ、自己愛を満たすという構図を維持することが、難しい時代になっているのです。今まで揺るがなかった評価軸が変わってきてしまったわけですね。

こうした背景もあって、自己肯定感が低くなり、ストレスに抵抗する力が弱くなってしまう人がとても多くなっています。
心の抵抗力=「レジリエンス」という言葉がありますが、苦しみに耐え、それをさらに力に変える能力が、本来の人間には備わっています。ところが、これが十分に発揮されていない状態の人が、多くなってしまっているのが現実です。

これは、自分の体に対するセルフケアを怠ってしまうことにもつながります。例えば、自己肯定感が低くなることで自暴自棄になり、体に悪いものを摂取する行動を強化してしまうことがあります。 極端に辛いものや味の濃いものを、いたずらに摂取してしまうといった行動です。刺激の強いもので瞬間的な快感を得る行動の裏には、「自分みたいな人間はどうなったっていいんだ」という、投げやりな感情が見て取れますが、その背景には自己肯定感の低さが隠れていることが少なくありません。
こうして、食べ過ぎると体によくないとわかっていても辛いものを食べてしまう、といった行動が引き起こされます。すると味覚が衰えてしまい、塩辛さ、甘さなど他の味を感じにくくなるために、味付けを濃くしないと満足できなくなるのです。体の声を聞く事ができなくなっている状態が、こうした不摂生な習慣の悪循環を生み、体の健康までも損なわれてしまう状態です。

■ お寺に来て、自己肯定感を育むという観点

こうした状態から抜け出すお手伝いは、医師だけではなく、僧侶としての立場からもおおいに可能だと考えています。なぜなら、仏教、そしてお寺は、ありのままの自分を認めて自慈心を育む存在であるはずだからです。

とはいえ、自分にはどのくらいの自己肯定感があるのか、という問題は、悩みを抱えているご本人はもちろん、相談を受ける我々僧侶の側でも、はっきりと認識するのは難しいもの。自分をうまく客観視できず、外で起きていることに注意力を使い果たしているために、自分の疲れや悩みに気づけないという人は少なくありません。一見自信にあふれているように見える人も、実は自己肯定感が低いということはいくらでもありえます。自己肯定感が低くなっていることにすら、気づかない人が多いのです。

そうした人のために、研究で使われている「セルフコンパッションスケール」という指標があります。このスケールは、ありのままの自分を受け入れる「セルフコンパッション」の研究に使われているもので、数十の質問を通して、その度合いを数値化することができるというものです。例えば、以下のようなチェック項目があります。
・ 自分の欠点について自分で批判を続けている
・ 落ち込んだり悩んだりしているときに、自分一人だけが悩んでいると思う
・ 自分が悪戦苦闘しているときに、他の人は楽しく、楽をしているに違いないと考えてしまう
・ 自分が苦しみを感じているときにその感情を無視し、直視しようとしない

こうした心の現象が、セルフコンパッションの度合いを測るものとして使われています。この指標を使うことで、自分1人では気づけない自己肯定感の度合いを数値化し、自己肯定感を高めるきっかけとなる「気づき」に繋げることができるわけです。

これは心理学の世界で使われる指標ですが、言ってみれば、考え方の偏りに気づき、どちらにも片寄らない「中道」の精神を学ぶ智慧とも言えます。みなさんのそれぞれの宗派にも、共通する教えが満ちていることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

ここで、お寺の「サンガ」の重要性が浮かび上がります。自分のこととなると、つい狭窄した視野でものを見てしまいがちです。でも、外からの目で見ると、冷静に状況を捉えることができますよね。サンガは人の集まりですから、自分の狭い視野だけにとらわれることなく、お互いの意見をシェアすることで、客観的視点を取り入れることができます。

そして、木の香り、畳の柔らかさ、風の通る広々とした空間など、五感への刺激に満ちたお寺の空間は、日頃背負っている役割や、仕事や家庭での評価から自分を解放してくれます。そのお手伝いをする、僧侶という存在もあります。

つまり、お寺はそもそも、自分をありのままに認められる場所なのではないかということです。だからお寺に訪れることで、誰もが自己肯定感を高めることができると私は考えています。実際に多くの方にお寺に足を運んでいただき、心の在りようが変化してゆくのを感じています。

■ 自己肯定感を高める「インターベンション・ブレスレット」

とはいえ、一度付いてしまった考え方の癖を1人で変えるのは難しいことです。そこで助けになる方法がたくさん編み出されています。

その一つが、「インターベンション・ブレスレット」と呼ばれる方法です。インターベンションとは「介入する」ということ。数珠でもいいし、髪留めのゴムや事務用の輪ゴムでもかまいません。簡単に外せるブレスレット状のものをどちらか一方の手首につけておきます。その状態で普通に暮らしていただくのですが、ふと「今、自分のことを責めていたな」と気づいたら、反対側の手首にブレスレットを付け替えるという方法です。

これは「おまじない」の類ではありません。この行動自体に治療的な効果があるわけではないのですが、重要なのは、この行動によって「手首から反対の手首に付け替えるという体感」が生まれること。反対の手首にブレスレットを付け替えた、という事実は、誰にも変えようがありませんよね。でも、思考はそれと反対に、浮かんでは消えていくものです。だからこうした定式化された行動によって体感を伴わせることで、「いま自分を責めていた」という心の動きを、自分自身に確かにインプットする、というのが、この方法です。こうすることで、いかに自分で自分を責めていたかに気づくことができるようになります。これは臨床的に非常に有効な方法です。

少し異なりますが、似た方法として、境界性パーソナリティ障害の患者さんの自傷衝動への対応法としても用いられています。自傷行為をしたくなってしまったら、腕に付けていえる輪ゴムをパチンと弾いて「体感」を与えます。こうすることで、自分を傷つけたいという衝動に気づくので、自傷行為がだんだんと減っていくんです。

みなさんも、自分を否定したり責めてしまう傾向があると感じたら、ぜひ試してみてはいかがでしょうか。「最近付け替える回数が減ってきたな」と感じたら、それは自己肯定感が養われたサインかもしれません。体感と自分の思考を紐づけるという点で、五郎丸さんやイチローさんが試合で行うルーティーンにも通じると言っていいものだと思います。

■ 自己肯定感を育む「マインドフルネス」

近年よく耳にするようになってきた「マインドフルネス」は、こうした自己肯定感を養う方法として、最良のもののひとつです。すでによくご存知の方もおられるかと思いますが、ここであらためてご説明します。

マインドフルネスは、仏教の教えをベースとしたもので、シンプルにいうと、「今ここにある、たった1つの現実に意識を集中させる」こと。「シングルタスクを習慣づけるための練習法」ともいえます。
現代ではマルチタスクが当たり前になってしまっていますが、呼吸など1つのことに集中することで、脳疲労が軽減され、エネルギーが充填されていくというメソッドです。シリコンバレーを始め、世界のリーダーたちが取り入れている方法で、日本でも近年企業研修で取り入れられることが増えています。

具体的な方法は、普段無意識に行っている呼吸に、あえて意識的に注意を向けて観察してみるということ。
鼻を出入りする空気の流れや、お腹の膨らみ・しぼみの感覚に注意を向けて観察します。呼吸という、今ここに確かにあるものに意識を向けることで、脳がリセットされるという、呼吸瞑想の一種です。
雑念が湧いても自分を責めず、気づいた自分を褒めてあげる。呼吸を観察し、遅くても速くても、それを受け入れる。不規則な呼吸を受け入れ、沸き上がる感情も、すべて受け止めます。

こうしたワークを繰り返すことで、自分の良さも悪さも、平等に扱うことができるようになっていきます。自分の感情から苦しみだけを抜粋すると自虐的になってしまいますし、かといって楽しみだけを選択すると、人の苦しみに寄り添えなくなるかもしれません。これはいい感情だからOK、悪い感情だからダメ、と評価するのではなく、ありのままに受け止められるようになっていくのです。

もう少し説明しますと、仏教でいう「六根」もキーワードになります。外から入ってくる五感+自分の心の中から生まれてくる意識、これを仏教では「六根」と言いますよね。この六根一つ一つを丹念に観察していくことが、マインドフルネスの大事な部分です。
つまり五感から感じている感覚と、自分の中にある思考を切り分けて考えるということ。ひとつの感覚に注意を向けることで、自分に対する感覚を研ぎすますことができます。それによって、自分に対する気づきの力=「アウェアネス」も高まっていきます。

■ 自動的な反応をやめれば、感情に振り回されなくなる

わたしは「3段階分析法」とよく言うんですけれど、「思考」と「感情」と「体感」を分けて考えることで、ネガティブな感情でもポジティブな感情でも、感情の海に取り込まれなくなります。
例えば、自転車で転んだとき、ぶつかった痛みという「体感」と、恥ずかしいという「感情」、そして「なんで転んでしまったんだろう」という「思考」が生まれたとしましょう。普段私たちはこの3種類の感覚をいっしょくたに捉えており、区別して観察することはしませんが、それで特に不自由はしていません。ところがうつ状態の患者さんは、ネガティブな思考パターンになってしまうため、同じ自転車で転んだ体験に対しても、「こんなことが起こるなんて、自分には生きている価値もないんだ」と悲観的な思いを抱いてしまいがちです。

そこで、あえて自分の中に起こった「思考」と「感情」と「体感」を分けて考えてみるのです。
すると「痛い!」という体感、「恥ずかしい」という感情、そして「自分は生きている価値がない」という思考が別々のものとして捉えられるようになり、自分の心のありようを客観視できるようになるのです。
そうすると、転んだことによる体の痛みは偽りのない確かな感覚ですが、それを「恥ずかしい」と捉える感情や、「生きている価値がない」という思考は、「自分の心が作り出したもの」であると気づくようになります。

こうして、物事に対する自分の捉え方に一呼吸はさめるようになり、条件反射的な感情が沸き上がることが少なくなっていきます。自動的に反応する前に、そこに客観視を入れてあげれば、過剰にネガティブになって落ち込んだり、喜び過ぎて我を失うほどテンションが上がった「躁」の状態になったりすることも防げるようになります。ロングセラーになっている草薙龍瞬さんの『反応しない練習』も、まさにそういうことを取りあげている1冊であると私は感じています。

お釈迦様は、「自分をしっかり見つめていけ」と説いています。自分がどういうものに対し、どう反応するのか。そのメカニズムをあきらかにしていきなさい、ということ。マインドフルネスは、まさにその最良の方法です。

■ 受け入れられない自分すらも、受け入れる

自分のいいところはともかく、悪いところを認めるのは苦しいかもしれません。でも、嫌だったら嫌でいいんです。そこからがスタートです。
やがて続けていくと、そんな自分を丸ごと受容できるようになっていきます。初めから「嫌なところも自分の一部なんだからOK」と無理に思い込もうとしても、なかなかうまくいきません。でも、「嫌だと感じている自分の心」を受容することなら、できると思うんですね。「◎◎なところを、自分は嫌がっているんだな」と気づくだけでいいんです。

普段私が患者さんを診察していて、薬を服用しない、精神分析も受けない、雑談だけして帰っていくという方が、1割か2割ほどいらっしゃいます。「誰かに自分の思いを話すことができる」と患者さんが思うこと自体が、治療の役割を果たしているんですね。「ずっと母親のことで悩んでいたのが原因なんだと自分で気づきました」というように、患者さん自身が話を通して気づくことで、サーッと治って、通院が終わる。そういう瞬間をたくさん見てきました。

このように、ありのままの自分を認めて自慈心を育むことは、医師でなくとも、僧侶の立場、お寺でもできることです。
お寺は誰もが肩書きを脱ぎ捨てて、ニュートラルなありのままの状態で人と接することができる場所であると考えていますから、病院以上にその役割を担える場なのではないかとも思います。これはお寺の持つ魅力ともつながってくると思うのですが、お寺の持つ崇高性も作用しているのではないでしょうか。ご本尊の存在も大きいのではないかということです。

仏像は、怒りや悲しみなど、人間の持っているいろんな表情を具現化したものです。仏様の前では誰もが平等。何百年も前から宗教行為が行われてきた歴史の中の一部に自分がいると感じたとき、職業的地位や肩書きをいったん手放すことができるのだと思います。

自坊でも坐禅会やマインドフルネスのワークショップを行っていますが、普段大きな会社で役員をされているような方であっても名刺交換などすることなく、初心者の若い学生さんに「集中できましたか?」「足、しびれません?」と気さくに声をかけたり、お年寄りの女性に「椅子お持ちしましょうか?」と優しく話しかける。そんな良きコミュニティを育んでいます。
人のために何かをしたいという利他の心だけでなく、人からの好意を抵抗なく受け入れる心も育まれているのです。これも、お寺の持つ、すべてをありのままに認めさせてくれる力ゆえではないでしょうか。

お寺で育まれる「繋がり」には、3つの要素があると考えています。
一つは、先にお伝えしたような、その場にいるみなさんとの繋がり。もう一つは世の中全体、世界とのつながり。何一つ。誰一人、別個では存在できない縁(えにし)、すなわち仏教でいうところの「諸法無我」の精神ですね。そして3つめが、自分の中のさまざまな要素と手を取り合っていく繋がりです。弱い自分と、握手する。蓋をして隠したい姿さえも、「君も仲間の一人だよ」と受け入れる。こうした気持ちが、自己肯定感を高めていくために必要なことだと考えています。

自己肯定感の低い方は、自分の性格や考え方は、一生変わらないと思っていることが多いのですが、自己肯定感は誰でも、何歳からでも高めてゆけます。そもそも、お釈迦様でさえも、死ぬのが怖かったのです。いつからでも、自分を変えられる。お寺の力を借りることで、自分で自分の自己肯定感を養うことができるのです。

マインドフルネス実践法 その一「呼吸瞑想」

1.頭のてっぺんから1本の糸で釣られているようなイメージで背を伸ばす。座布団などに座るほか、椅子に座ったり、立ったりしてもOK
2.意図的ではない、自然な呼吸に身をまかせ、鼻を出入りする空気の流れを、鼻先やその周囲で感じる
3.鼻を出入りする空気の流れが感じられにくい場合は、お腹の膨らみ・しぼみの感覚を感じる方法でもよい
4.うまく呼吸ができなかったり、ペースが乱れたりしても、良い・悪いといった判断をしない
5.特に決まった時間はないので、1分でも10分でも、好きなときに行う

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