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お寺から始める ココロとカラダの健康塾 #6 自己肯定が導く「他者を認める」こと

精神科・心療内科医として診療に携わりながら臨済宗建長寺派林香寺の住職を務める、川野泰周さん。この連載では、お寺から提供できる「健康」について構想していただきます。
第6回のテーマは「他者を認める」。人と人とのつながりの中で生きる人間には「他者を認める」ことが必要ですが、そのためにまず必要なのは「自分を認めること」というお話です。日頃接する仏教の教えや、身の回りの人々の顔を思い浮かべながら、どうぞご覧ください。

2019.06.19 WED 14:16
構成 増山かおり
PROFILE

川野泰周(かわのたいしゅう)

臨済宗建長寺派林香寺住職/RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長/一社)寺子屋ブッダ理事

2004年慶応義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院精神神経科、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より大本山建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行を行った。現在は寺務の傍ら精神科診療にあたり、マインドフルネスや禅の瞑想を積極的に取り入れた治療を行う。またビジネスパーソン、看護師、介護職、学校教員、子育て世代の主婦など、様々な人々を対象に講演・講義を行っている。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)、『あるあるで学ぶ余裕がないときの心の整え方』(インプレス)などがある。精神保健指定医・日本精神神経学会認定専門医・医師会認定産業医。

この連載の第2回で、自分を認める自己肯定感の大切さについてお話しました。自己肯定感を持つことが難しくなっている現代は、自分の体に対するセルフケアを怠りがちで、これが健康を損なうことにもなるというテーマでした。
今回お話したいのは、この自己肯定感は、自分の心と体だけでなく、他者にも影響を及ぼすということです。

■ 偽りの自己肯定に潜む自己否認

みなさんの周りに、いつも他人の批判ばかりしていて、自己肯定感が高そうに見える人がいませんか。ですが、自己肯定感が高いのに他者を批判ばかりするという人は、実は存在しません。
仕事をバリバリこなしていて、俺はすごい、何でもできる、と言わんばかりの万能感に満ちている人は、一見自己肯定感が高いように思えます。ですが、それをことさらにアピールする人は、実は心の底では自分を批判し続けている人なのです。他者を攻撃するのは、その裏返し。自己を防衛するための他者批判なのです。
もし面と向かってそれを指摘したら、その人はそれを否認するでしょう。自覚なきままに、自分の弱い部分を見て見ぬ振りをしているという防衛こそが、「否認」という現象だからです。自分のありようを受容できる心の基礎があれば、自分の問題のある部分をも自覚することができます。つまり万能感とは、実は自己存在に対する否認の塊だともいえるのです。
本当に自分を肯定できていれば、自分自身の良いところだけでなく、苦手なことや課題となる部分もしっかりと観察することができます。そしてそのような人は、おのずと他者を認められるはずなのです。

■ 自己受容が、他者の受容を導く

最近の心理学における「セルフ・コンパッション」、つまりありのままの自分を受け入れる「自慈心(じじしん)」の研究においても、自己受容ができている人は、自然と他者の存在も受容できるということが明らかにされています。自己受容と他者受容はセットであり、自然に移行していくものなのです。
人間の脳にはミラーニューロンという神経細胞があり、これは他者のことを我が事のように感じる共感性の源ともいわれています。自己を受容する姿勢を持つようにすると、自分の心や体に対する気づきが豊かになっていきます。すると、相手の表情やちょっとした仕草、顔色をみて、この人はどんな状態なんだろう、何を考えているんだろうと考えられるようになってきます。つまり、他者の心のありようが理解できるようになるのです。さらに加えて、次第にありがたいものをありがたいと思える感謝の心が養われていきます。
さきほど述べたような万能感タイプの人は、感謝の気持ちを十分に持っていないことがあります。最初から万能だから、何に感謝する必要もない、というわけです。むしろ私が感謝されるべきだ、とさえ考えることもあるでしょう。しかしながら人間は誰しも、葛藤や困難を乗り越える過程で、直接的にも間接的にも誰かから助けを得ているものです。自分一人で存在することはできないという考えは、仏教でいうところの「諸法無我」の精神ですね。けれど、自分の不完全さを見て見ぬ振りをしてきた人は、誰かに力を借りたという事実すら受け止めたくないのです。ですから、感謝の気持ちを持って他者を認めるためには、まず自分を認めることが前提となるのです。

■ 他者への感謝に満ちていた、ブッダの生涯

ブッダの言葉を伝える「スッタニパータ」(慈経)でも、感謝について繰り返し述べられています。ブッダはスジャータの差し出した乳粥をいただき、心身ともに活力を取り戻し悟りに至りました。そしてその後は生涯多くの一般の人たちと交わり、村から村へと歩いて法話の旅を終生続けました。自分の得た悟りを人に返したいという気持ちがそうさせたと言われています。そして亡くなる直前、一番弟子のアーナンダに「よく世話をしてくれてありがとう」と言ってこの世を去りました。ブッダの悟りは感謝に始まり、感謝に終わったのです。そして、亡きあとは、人々が教えをそれぞれに実践していくようにと伝えました。ブッダは、生きている間には聖典などの体系は残しませんでした。後の人々がブッダの生前の教えを様々な教典にしたためたのです。ブッダは恐らく、自らが口伝で教えを託した弟子たちを心底信頼し、その弟子から弟子へと、後のそれぞれの時代に必要な教えを伝えていってほしいと思っていたのではないかと私は考えています。他者を心から信頼し、次の時代を託すこと、これは、自己肯定がなければ絶対にできないことです。

■ 自分を人生の主人公に

感謝の心にたどり着くためには、なんらかの取り組みによって、自分は満たされていると気づくことが必要です。そしてその際に、それが自己犠牲のもとに成り立っていないか否か、考えることも大切です。
例えば、自分自身はすごく辛い境遇の中でも人を助けようと行動を取る方がいます。がんなどの病気で辛い経験をした人が、ほかの患者さんを助けたいと思うケースを考えてみましょう。自己受容のうえに成り立った他者貢献ならば素晴らしいことですが、十分に自分のケアをせずに、人に対するケアばかりに意識が向いて、自己犠牲的な貢献に疲れ果て燃え尽きて(バーンアウトして)しまう人もいます。ですが、そこで自分のことも大事にしてあげなければという気づきがあれば、自己受容が一気に進んで他者貢献を果たすことができます。他者を受容することは、決して自己犠牲とイコールではないのです。
そこで浮かび上がるのが、「主人公」という言葉です。耳慣れた言葉ですが、これは元々は唐の瑞巌禅師の発した禅語です。瑞巌禅師は、「おい主人公」と毎朝自分に呼びかけ、「道を見失うなよ」「はい」といった独り言を言ってから1日の修行をしていたと言われています。自分の人生を主体的に生きられるのは自分だけなんだという、非常に禅的なメッセージがここに込められています。自分の心の根幹までも他者に委ねるのではなく、自分の人生の主人公はあくまで自分であるということ。これは、日本人が美徳とする、奥ゆかしい振る舞いとも矛盾するものではないと思います。自分を本当に大事にできているかを問うことは、おのずと他者を認める道にもつながるのです。

自分と他者を認めるワーク

① ペアまたは3人組になって、1人は自分のいいところを2分間プレゼンする。他の人は、プレゼンに耳を傾ける。
② 順番を交替し、相手が自分のいいところを話すのを傾聴する。

これはテキサス大学のクリスティン・ネフとハーバード大学のクリストファー・ガーマーという2人の臨床家が共同開発したセルフ・コンパッションのためのプログラムを、取り組みやすい形に私がアレンジしたものです。シンプルですがとても効果的で、私も普段の治療に取り入れています。
自分の話を聴いてもらった後に相手の話を聴くと、とてもマインドフルに聴くことができます。また2番目に話す人も、初めに相手が話を聴かせてくれることによって、今まで気づかなかった自分のいいところが口をついて出てきたりするのです。
もうひとつ面白いのは、ワークが進むごとに、取り組んでいる皆さんの姿勢や角度がどんどん前のめりになって、互いの物理的な距離が近づいていくこと。こうしたよい循環が生まれるワークを通して、自分と相手を共に肯定する気持ちが生まれます。
日常生活においては、自分のことを自慢するのはよしとされませんので、最初は抵抗があるかもしれません。ですが、このワークはギブアンドテイクの関係になっているので、心を開いて話し、聴くことができるのです。

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