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寺子屋學シンポジウム 2019.11.25 - 第1部 対談「健康と習慣とお寺」松本紹圭×川野泰周 (後編)

全3回に渡ってお届けする、松本紹圭師と川野泰周師の対談「健康と習慣とお寺」。
前回の(中編)では、お寺に来た方に「習慣」を意識してもらうために松本紹圭師が実践している「テンプルモーニング」という活動について語っていただきました。

そしていよいよ(後編)は、「地域包括ケアシステム」という仕組みの中でお寺や僧侶が貢献できることは何なのか?という話題に移っていきます。
松本紹圭師が最近キーワードにしている「Post-religion(ポストレリジョン)」という流れとも興味深い関わりが見えてきます。

2020.01.31 FRI 15:51
編集・構成 遠藤卓也
PROFILE

松本紹圭(まつもとしょうけい)

僧侶・未来の住職塾塾長

1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、7年間で600名以上の宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。『こころを磨くSOJIの習慣』(ディスカバートゥエンティワン)他、著書多数。お寺の朝掃除の会「Temple Morning」の情報はツイッター(@shoukeim)にて。

PROFILE

川野泰周(かわのたいしゅう)

臨済宗建長寺派林香寺住職/RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長/一社)寺子屋ブッダ理事

2004年慶応義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院精神神経科、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より大本山建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行を行った。現在は寺務の傍ら精神科診療にあたり、マインドフルネスや禅の瞑想を積極的に取り入れた治療を行う。またビジネスパーソン、看護師、介護職、学校教員、子育て世代の主婦など、様々な人々を対象に講演・講義を行っている。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)、『あるあるで学ぶ余裕がないときの心の整え方』(インプレス)などがある。精神保健指定医・日本精神神経学会認定専門医・医師会認定産業医。

5.地域の健康に貢献するお寺の姿

川野泰周

地域包括ケアシステムというものがありますが、高齢者の方に対して介護保険や、国が提供している様々な資源や財源というものが想定されています。

川野泰周

四つの助けるという字を書いて「共助」「公助」「互助」「自助」という四つの助けるのうち、最初の二つが少し立ち行かなくなっているのが現状なんですね。公助というのは先程ご説明ありましたが国の財源を用いて提供される、何らかの補助ですね。それに対して、共助というのは互いに支えあうという意味はあるのですが、そこに法的な枠組みがあります。制度としての枠組みがあります。介護保険は私たちが保険料を支払った分が、年齢を経たときに介護サービスという形で返ってくる。これは共助ですね。ただこの2つというのは、これから先に高度の高齢化社会を迎えるにあたって、なかなか追いつかなくなっているところがあります。
実は私自身が思っているのは、自助と互助と言って、本来自分で自分のことを、何とかケアしてあげようという観点。それから、地域のまわりの人たち。お互いに、直接手の届くかたちで支えあうというあり方が必要になってくるんじゃないかと思うんですね。自助と互助ということに関して、松本さんからご覧になって何かお寺のできる役割ってあるかな、と思われることはありますか?

松本紹圭

国の仕組みとして成り立たなくなってきている中で、自助はまずは自分自身で自分の身を守るということですかね。サバイバルと言うと、ちょっと言い方がきついですが。でもこれだけ人生・寿命が延びてしまったという中で、地球環境のことだけではなくて自分自身の人生をどうサステナブルなものにしていくか、ということを意識することですよね。
今までは医療もそうですけど、何か不調が出たら病院に行って治してもらうという意識でした。でもどこかで意識を切りかえて「最後は自分でやるしかないんだよ」ということをはっきりと意識する必要がある。今までもそうだったのだとは思いますが。そしてそのことについて一人ひとりが自立的に生きていく人間なんだということを前提にした上で、互いに助け合うような文化ですよね。文化と仲間づくりをしていくと。しかも今までの家族的な繋がり、地縁とか血縁という繋がりがは崩れてきています。そしてもう一つ言ってしまえば宗教共同体も同様だと思います。今までの延長線上で檀家コミュニティがあって、そこに新たに檀家になってもらおうとかではなく、それに代わるような新たな繋がり、互助の繋がりづくりを再設計する必要があると思います。
でもそこの部分で、特に仕組みだけじゃなくて考え方の部分が重要です。人生をどうみるか、生きるということ、死ぬということを、どう受け止めていくのか?というところに、お寺側つまり宗教者が見方や指針を示してあげることは、すごく大きな価値があると思いますね。

川野泰周

ありがとうございます。新しいお寺のあり方、価値、そういうことに気付いていく時代を迎えているのではないかと、私も思います。
ただ、もう一つ考えておかなければいけないのはやはり、お寺が宗教施設であるという観点があります。宗教施設という言葉を使うと、一気にお寺に関係がない一般の方の目が、さーっと引いていくような感じをうけますよね。今私、ビジネスの世界とか、患者さんたちに、何か治療としてマインドフルを提供するときにもよく感じるんですね。ここの違いは何なのかなって。押し付けとか盲信とか対立といったイメージで信仰や宗教といった言葉が出てくると。そう捉えられてしまうのは、私は本質ではない気がしています。そのことについて松本さんは「Post-religion(ポストレリジョン)」という言葉を提唱してらっしゃるんですね。宗教の先という意味合いで私は捉えていますが、これを拝見したときに、すごく明確で分かりやすい概念だと思いました。少し「Post-religion」についてお話しいただいてもいいですか?

松本紹圭

私は今40歳ですが、宗教と言ったときに人生の中で大きかった事件はオウム真理教ですかね。この日本に生きてきて、大きな出来事だったと思います。そこでカルト宗教というものが、社会の中でも話題にもなりましたし、宗教への見方をすごくネガティブなものにしたのではないかと思っています。そこで言われている宗教とは何かというと「唯一の正しさへの依存」なのかなと。
私がレリジョンと言うときに、あえてカタカナでいうときには「唯一の正しさへの依存」、つまり依存心について言っています。多かれ少なかれ、宗教団体とかまたは宗教団体に限らず、人が集まると大体そういうことが起きるわけですよね。会社教の人もいます。「私は無宗教です」と言っている人に限って、何かそういう依存心を持っていたりしますよね。そういうものから「ちょっと気持ち悪いね」「距離を置きたいね」という人たちもやはり増えているんじゃないかなと思います。
特に日本ではお寺離れとか、もっと言えば宗教離れなんていうことも言われますが、それは世界でも起こっていることです。キリスト教でも若者の教会離れということもありますし。でもそれは自分の精神性を高めたいとか、いわゆるスピリチュアリティから離れているというわけではなく、そこには興味がありながらも、それを囲い込まれるような発想。「唯一の正しさ」に改宗させられるような、いわゆるレリジョンの持っている構造が気持ち悪いということだと思うんですよね。
その時に、これは仏教に限らないのかと思いますが、仏教は特に元々そういうものから離れる道だったのではないかと思うんですね。執着心であったり、カルト的なマインドであったり。そういうものから離れていく、自由になっていく道、だったと思うんですよね。その意味では仏教に関わる、私もその一人として、レリジョンにいってしまいがちな人間の性として。そこをぐっとこらえて、より元々の仏教の持っている良さ。そこにやっぱり今どきの人は惹かれてもいると思いますし、それをどうやって活かしいくことができるかということが非常に大事だと思うんですね。
極端に言えば、仏教が宗教をやめちゃえばいいんだと思っていて。それは冗談でもなくて、神道の人でもそうだと思ってる人はいると思います。神道の人と話していても「宗教法人の枠に入れられるのが、もう面倒くさいんですよね」という人もいて。それはきっと、お寺も本来そうなのだと私は思っています。
だからこのテーマにあうか分かりませんが、地域包括ケアシステムや行政であったり、もっと広く社会の色々なステークホルダーや仕組みと接続していくときにも、宗教という枠の中にいることのデメリットが、すごく大きくなっているので。そこを、一人だとなかなか難しいかもしれませんけど、ちょっと違った形での組み方を考えていく必要が出てくると思います。
もっと踏み込んで言えば、そういったことが放っておいても進んでいくと思うんですね。そうしたときに、一つの予想として20年後30年後ぐらいは、もうお寺や神社は宗教法人ではないかもしれませんね。宗教法人じゃないお寺や神社が出てきても、全然いいんじゃないかなと思います。国家権力に役割を定義されるのが、お坊さんだったはずではないですからね。だからそこは一人のお坊さんとして、宗教者として、何の属性であろうとも、関係なく役割を果たせばいいのだと思います。多分これからはもっともっと色んな、自由な発想での組み方を模索していくような実験が必要なんだろうなと思っています。

川野泰周

レリジョンという言葉を「唯一の正しさの依存心」と捉えてみると、今おっしゃることはすごく分かりやすいと思いました。先祖供養というのはやはりお寺に与えられた大事なお役目として、また一般の方たちにも親しまれてきたこれまでの習慣だと思うのですが、先祖供養というのは、ともすると宗教から離れることによって、信仰から離れることによって、その意味合いが薄らいでしまうのではないかと最初のイメージをもっていました。
しかし今の「Post-religion」のお話を聞くと先祖供養というのは松本さんの中でも一つ大事な観点として、これからも根付いていくものなのではないかと、私は勝手に感じました。お寺における先祖供養に対して、これからの時代に何か言えることはありますか?

松本紹圭

よく私は「日本の仏教・お寺は二階建てである」という話をしています。二階建てというのは比喩ですが、一階は先祖教で、二階はあえて区別するために、仏教を特別化するために、仏道であると言っています。一階は死者を中心とする世界。二階は生きている人ための、例えば自分の心を整えるとか「マインドフルネス世界」と言ってもいいんですかね。この例えで見たときに一階の先祖供養つまり先祖教の部分と、二階がどう関わるかということだと思いますが、一つには経済的には一階がお寺を支えてきたという構造があり、坐禅会だけでお寺を支えるというのは大変なことだと思いますよね。
しかし経済の話だけではなく、私が最近すごく実感したのは、先祖供養だけをやっているから仏道がやれていなかったのかと言うと、決してそんなことはないと思うんですね。先祖供養の部分、一階は死者と共にある世界です。死者を中心とした世界がある、ということ。しかもそれがどこかに点としてあるのではなくて、日本中がそうですよね。これほど死者を大事にして、死者が社会の重要な構成要因としてあるという形で、世界がつくられている国は他になかなかないんじゃないかな。だからお墓もたくさんありますし、そういう中で生きているということ自体が、日本なりの二階を支えてきた要因でもあるのではないかな、と思うんです。
ハリファックス老師が「マインドフルネスと死」というテーマでお話をされていて、私もすごくインスパイアされました。「死を思う」ということは、自分は自分の死を体験できないので、必ず他者を通しての行為なわけですよね。だから、他者の死がこれだけ身近にあるところで生きる、生きていくということ自体が何かすごく大きな土台としてあったのではなないかと思うんですね。朝仏壇を開いて、お位牌に手を合わせるという習慣も含めて、私たちの住むこの日本の先達たちなりの「マインドフルネス」だったのではないかと。あまりそういうカタカナでは表現されてはこなかったかもしれませんが。
だからお寺を二階建て構造で見たときに、一階の「先祖教」と二階の「仏道」はバッティングするということでは全然なくて、むしろそこに日本のユニークさ、独自性みたいなものをもっと見出していきたいなと、最近思いますね。

川野泰周

死を身近に感じることもできるのが、本来の日本の心のあり方だと言われてきたと思うのですが、近年では、葬送に臨んだり先祖代々からにお墓を引き継いだり、ということがどんどん少なくなっています。死というものはある日病気と共に突然やってくると、心理的な変容も大きなものとなります。それまでに死に対して目を向けてこなかった若い方たちが、近しい人の死などを通して突然、人の生老病死を目の当たりにしたとき、一気に悩み苦しみの中に陥ってしまうということが少なくありません。私は今のように松本さんがおっしゃった二階建ての構造って、すごくいい言葉だなと思っています。様々な、多義的な役割を持っているのがお寺であって、それをいかに一つの場所から融合して提供できるかということを考えたときに、従来の枠組みと共にこれからを生きる人の、お寺のあり方というのも問うていけるのではないか、と思っています。この健康づくりのための教室をお寺でやっていくということに対して、励ましをいただいたような気がいたします。松本さん、どうもありがとうございました。

松本紹圭

ありがとうございました。

仏教は「自利利他円満」を目指す「智慧と慈悲」の宗教です。古来からお寺は、社会に「智慧と慈悲」の大切さを説き、自助・互助の実践を地域に提供してきたのではないでしょうか。お寺が「自助・互助」を中心とした健康維持や予防を提供していくことは、とても蓋然性が高いのではないかと考えます。
加えて松本さんからは、僧侶として果たしうる役割についても示唆に富んだお話しがありましたが、これも「人生をどうみるか、生きるということ、死ぬということを、どう受け止めていくのか?というところに、宗教者が見方や指針を示してあげること」という、昔から僧侶が行なっていることが挙げられました。
ますます「健康と習慣とお寺」の相性の良さが浮かび上がり、「ヘルシーテンプル」のこれからの展開に期待が高まる対談となりました。
松本紹圭さん、川野泰周さん、ありがとうございました。

編集・構成 遠藤卓也

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