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寺子屋學シンポジウム 2019.11.25 - 第1部 対談「健康と習慣とお寺」松本紹圭×川野泰周 (前編)

「健康って何?」会場へのそんな問いかけから始まった『寺子屋學シンポジウム2019』。第1部は問いかけの発信者・川野泰周師と、未来の住職塾 塾長 松本紹圭師の対談「健康と習慣とお寺」です。
精神科医として診療に従事もしている臨済宗建長寺派の川野師と、お寺で朝の習慣づくりとなる活動「テンプルモーニング」を続けている浄土真宗本願寺派の松本師。ユニークな個性をもつ両師それぞれの目線から、これからの社会におけるお寺・僧侶の役割が語られます。

2020.01.24 FRI 12:17
編集・構成 遠藤卓也
PROFILE

松本紹圭(まつもとしょうけい)

僧侶・未来の住職塾塾長

1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、7年間で600名以上の宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。『こころを磨くSOJIの習慣』(ディスカバートゥエンティワン)他、著書多数。お寺の朝掃除の会「Temple Morning」の情報はツイッター(@shoukeim)にて。

PROFILE

川野泰周(かわのたいしゅう)

臨済宗建長寺派林香寺住職/RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長/一社)寺子屋ブッダ理事

2004年慶応義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院精神神経科、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より大本山建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行を行った。現在は寺務の傍ら精神科診療にあたり、マインドフルネスや禅の瞑想を積極的に取り入れた治療を行う。またビジネスパーソン、看護師、介護職、学校教員、子育て世代の主婦など、様々な人々を対象に講演・講義を行っている。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)、『あるあるで学ぶ余裕がないときの心の整え方』(インプレス)などがある。精神保健指定医・日本精神神経学会認定専門医・医師会認定産業医。

1.WHOの定義から、あらためて「健康」を捉えなおす

川野泰周

私たち寺子屋ブッダでは、心と体の健康づくりの場所としてお寺を活かしていこうという「ヘルシーテンプル構想」というコンセプトを掲げています。そもそもこの「ヘルシーテンプル構想」について、あるいはご自身にとっての「健康」というものを考えてみたときに、松本さんはどんな考えをお持ちか少し教えていただいてもよろしいですか?

松本紹圭

今日の会場を見渡してみると、半分以上知っている方がいらっしゃいます。色んなところで、色んなかたちで知っている方々がこの会場に多くいらしていて、私は今結構安心した気持ちでいるのですが、この安心というのが重要かなと思っています。冒頭に行なった健康の定義に関するアンケートで、私が書いたのは「苦しまないこと」です。その前にいくつか、「元気」ですとか、ポジティブなワードも書きましたが、結局どちらかと言うとマイナスというかネガティブな言葉が出てきました。苦しいことがない状態。苦しいことがなければ大丈夫だという、そういう感覚がありますね。

川野泰周

苦というのは仏教から考えても非常に大切な観点だと思うのですが、仏教的なイメージから出てきた言葉でしょうか?それとも主観的にただ「苦しまないのがいいな」と感じられたのでしょうか?

松本紹圭

仏教的なこともイメージはしますが、もっと素朴に「苦しまないで生きられればいいじゃない」と思いました。これは、よく小池龍之介さんが言っていて「本当にそうだよな」と思って生きているので、だから健康に関するイメージとしてそちらの考え方をしていましたね。

川野泰周

私もすごく小池龍之介さんの考え方が好きで、いつも本は読ませていただいています。私も同じように感じますね。
私自身は日ごろ精神科医として診療もさせていただいているのですが例えば「この人はどれくらい抑うつ状態にあるのかどうか」と、精神科の検査技法を使って調べたり、あるいは採血検査や脳のMRIをとっても「全く数値的に異常が見当たらない」という方が外来に多いのです。ところが、人生に迷っていることがあって苦しみを感じていたり、検査による数値的なスコアに現れない苦しみを持っている方を診たときに、数値だけで判断して「この人は健康です」と申し上げて、そのままお帰しすることが何とも心苦しいという経験をしています。
そこで今日は、WHOの定義する健康について、一緒に考えてみたいと思います。WHOでは健康の定義をこのように言ってます。

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

川野泰周

つまり病気でないとか、身体に欠損がないということだけではなく、「肉体的にも、精神的にも、社会的にも、満たされた状態が健康だ」と定義されています。ただこれに加えて、1998年には改定案が提示されたことも知られています。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

川野泰周

この改定案は「理解が難しい」など大変多くの議論をよんで、手続きを踏むことが難しいということから却下されてしまいました。改訂はなされずに、元々の原案が採用されて今に至るのですが。改定案においては、このstate ofの前にdynamic(ダイナミック)がついています。Health is a dynamic state 。dynamicというのは「壮大である」というイメージで捉えがちですが、医学的には「変動し得る」という可変的なもののことをdynamic 、動的という意味で捉えます。そしてphysical、mental、socialだけではなくて、spiritual(スピリチュアル)という言葉が入っています。spiritual well-beingと。つまり動的に、spirituality(スピリチュアリティ)を含めて「幸せである」「よい状態である」というのが、WHOの定義だったということなのですが。松本さんは、これを見てどのようにお考えになりますか?

松本紹圭

改訂版のほうが、よりいいなと思いました。でも改訂される前から「well-being」という言葉が入っているのも、結構新鮮に感じました。随分前から言われていたのだな、と。その「well-being」という言葉を、今私たちは再発見しつつあるようなところなのですかね。

川野泰周

残念ながら日本の医学においてはこの「well-being」という観点に注目が集まるようになったのは、本当にこの5年から10年ぐらいです。それまでの日本の医療というのはやはり、ここに書いてある「not merely the absence of disease or infirmity.」という認識なんですね。欠損があれば、それをリハビリで治療したり装具を付けたり、あるいは病気があればそれを治す、といったところに健康の焦点があてられていました。最近ようやく世界水準の観点に向いてきているかなと思うんですよね。

松本紹圭

やはり、自分自身がどう感じるかということですよね。先ほど川野さんがおっしゃったように、外からのものさしで「この人はあらゆる観点から診断してみても、大丈夫なはずだ」と言っても、本人がどう感じるかということが、尊重される必要がある。それがこの「well-being」という言葉に内包されていると思います。
私は「未来の住職塾」という、お坊さんが皆でお寺の運営を学ぶ塾をやっているのですが、そこでは「これから、お寺であれ、宗教者であれ、そういう分野に関わっていく人は、1つ重要なコンセプトとして「well-being」がありますね」と、話しています。ただ難しいのは、カタカナで「ウェルビーイング」と書いても「何ですかそれ?」という感じになってしまうので、どう翻訳できるのかということが大事ですよね。これまでもずっと考えてきましたが。最近「未来の住職塾」の塾生の方から言われて、なるほどと思えたのが。「安心(あんじん)」という言葉。「well-beingってかなり、仏教で言うところの安心に近いものなんじゃないですか?」と言われて、「確かに、ぴったりイコールとは言わないまでも、結構近いところあるかも。」と思いました。というのは、最後の最後は「あなたは安心を得ましたね、得ませんね」と判断されるようなことではなくて、あくまでも「自分自身のこと」なんですよね。しかも、普段の生活においてのこと。今どきは「あんじん」ではなく「あんしん」という読み方で意味も異なりますが、そういう意味合いも内包しながら、でもWHOによる「健康」定義の改定案でいうところのspiritual(スピリチュアル)もむしろ中心に添えられていますから「ああ、なるほどな」と思ったのです。

川野泰周

私もすごく「安心」が近いような気がしています。「安心」という言葉には主体的に「すごく良い感じ」というよりは、程よく肩の力が抜けているイメージを持ちますよね。よく私たちの精神医学の分野で大事にするのは「こうあるべきである」という理想と、「現実そうなっていない」という現実の状況、現状との乖離が大きくなってくればそれだけ不安が強くなる。ストレスになる。だから「安心」というのは、こうあるべきである理想を達成するだけではなくて「こうあるべきである」という考え自体を柔らかにしてあげるような、考え方を柔軟にする観点が含まれている気がしています。目標に対して、それに到達するために頑張るという目標思考型の考え方とは一線を画す考え方なのではないかと感じていて、その辺がすごく東洋的だなと思います。
健康というのは1人1人違う、ということに関してこの「習慣」というものが健康をつくっていくのではないかと私はかねてからずっと思っていました。

2.習慣という切り口からお寺をみる

川野泰周

いざ、健康をどのように実現していくかと考えたときに、やはり生きている間の全ての生活習慣というものは、健康に影響しているということは当然ながら元々、予防医学の観点で言われています。これを、寺子屋ブッダ代表の松村さんは「生きている限り、私たちの体の ”閻魔帳” に日頃の生活習慣が刻まれているんですよ」と例えて仰っています。人を殺めたとか、傷付けたとかいう、従来の道徳的な意味だけに限らず、自分自身の健康をちゃんと維持するための行動がとれているか?ということも体の ”閻魔帳” に記されているという例えです。それは全て生活習慣からきていると思うんですよね。私は一人ひとりの健康や、また地域コミュニティにおける寺院のあり方というのも、この習慣という観点が非常に大事だと思っています。私たちの宗教は、大乗仏教の中であっても、また南方系の上座部仏教であっても、それぞれの宗派に基づいている実践法というのがありますが、それらは全て習慣の積み重ねだと思っています。それぞれに違った作法を持っていますが、一つ一つの作法やその生活の中でやるべきことを疎かにしていいと教えている仏教の集団は、一つもないですよね。そう考えていくと、実は習慣に落とし込むときに、お寺を発信地とするというのはすごく良いアイディアなんじゃないかなと、私は思ったのです。
松本さんも習慣づくりということに関して、著書の中でも色々と書かれています。習慣を身に付けるために、お寺は大きな役割を担えるんじゃないか、と提案されていたのを見て、お寺からどんな習慣づくりが可能か?お寺の役割としてどんなものが考えられるか?ということをぜひこの場で聞かせていただきたいと思っていました。いかがでしょうか。

松本紹圭

今日、皆さんの前に出てくるのに服装をどうしようかな、と考えたのですが作務衣で出させていただきました。作務衣の作務はお寺の作務のことですよね。修行道場、つまりお坊さんの生活空間を整えていくという時に、作務衣を着て掃除をするわけです。お坊さんの修行と言うと、座禅とか滝に打たれたりとか、そういうところをイメージされがちですが、寧ろ日常生活をすごく大事にして整えていく、ということに焦点が当たっていると思うんですね。私は最近、その中でも掃除に注目しています。
最初は掃除に関する本を書いて、掃除を紹介しようと考えました。私は浄土真宗だから禅宗のお坊さんに比べて特に掃除推しでもないし、自分が書く必然性もあまりなかったのですが、でも確かに、仏教のお坊さんが日常生活の大切さを言っている本は案外少ないのかもしれないと思って、書きました。

松本紹圭

その本の英語版が出版された時に、このようなイラストになって出てきてしまってですね、私は浄土真宗なので普段は坐禅しないのですが、だんだん図々しくなって(笑)この表紙が出てきてもあまり気にならずにスルーしてしまったんですね。そうしたら、この本が世界で売られている、ということになりました。
私は「未来の住職塾」という活動を通して、各地のお坊さんたちと一緒に「お寺の役割とは?」ということを考え続けてきたのですが、やっと自分なりにお寺の定義を発見しました。それは「お寺はよき習慣の道場である」ということです。短くてシンプルな言葉ですが、ここに至るのに10年以上時間がかかったなと思っています。この定義は「これからのお寺」というか、お寺本来の役割をよく言いあらわしているのではないかなと、勝手に思っているんです。というのは、特別ここに仏教という言葉は入ってきていません。でもまず「道場である」というのは確かで、仏道を実践する場所であるということ。お寺という場所がやはり特別な空間である、ということを言っています。あと、習慣の部分についても仏教の教えの中に、例えば「戒定慧(かいじょうえ)」という、すごく基本的な仏道のステップがあり、その根本が「戒」ですね。円覚寺の横田南嶺老師から「戒とは習慣である」と教わりました。それを大切にしていくことが坐禅であれ瞑想であれ何であれ、日常色々なことをするかもしれないけれど、全ての基本の部分となる。「ベースがなければあれこれやってもやはり駄目だよね」ということを教えていただいて「あっ、確かに」と思いました。だからその部分については、普遍的に誰にでも関係があることですよね。皆何かしら日常生活で「本当はもうちょっとこういうふうにできたらいいのにな」と思っていてなかなか出来ないことを、皆で取り組んでいくことによって何とか軌道にのせていく。そういう場として、お寺が存在してきたのだな、ということが改めて習慣という切り口で見たときに浮かび上がってきたのです。

川野泰周

「戒は習慣である」というのは、私もすごく勉強させられた言葉ですね。振り返ってみますと、禅の道場。それこそ横田南嶺老師は、私が修行した建長寺のお隣。北鎌倉の駅前の大本山円覚寺の管長さんでらっしゃいますけれども。私も同じ、臨済宗の建長寺の僧堂で修行しましたが。「規矩(きく)」というものがありましてね。道場では「規矩(きく)」を乱してはいけないと。やってはいけないことがいろいろあるわけですね。「五辛」という、いわゆる辛いものをとってはいけないとか、肉を食べてはいけない、お酒を飲んではいけないとか、修行中はいろいろあるわけです。そのことを守るという意識よりは、日々の生活で行うべきこと一つ一つに注力をして、ただひたむきに取り組むということが、自分自身のあり方を変えていってくれるという体験は、やはり修行2年目ぐらいになって分かってきたと感じています。1年目は、他の修行僧の皆さんについていくのに必死です。一歩足の踏み出す方向が逆だと「こら!」と怒られたり、托鉢をしていて1人だけ隊列が乱れると、やっぱりあとから怒られていました。怒られながら、怒られながらやっていくのですが、それがやがて骨身にしみて自然にできるようになったときに、非常に心地よい気持ちで日々を過ごせるようになっていったんですよね。その影響というのは実は自分だけに限ったことではなくて、例えば、私たち修行僧が鎌倉の地域や逗子の地域、遠くは江ノ島ぐらいまで歩いて、日々托鉢をするわけですが、托鉢で訪れた街の方たちが、あとでまた建長寺に参拝にいらしたときに「托鉢をしている皆さんの動きが、あまりに美しくてきれいだったので、あれからうちのお庭をきれいに手入れするようになったんです」と。「だからもう一度、今度うちのお寺に托鉢で寄ってくださったときは、きれいに刈った、整備した庭で、お茶でも一杯飲んでいってください」と言ってくださったのが、大変嬉しかったんですね。自分たちが精一杯やっているだけのことが、もしかすると近隣の方たち、関わる人たちの心のあり方を少しずつ変えていくという力があるのかなと思い、お寺というか宗教というものに対して、私の中で一つ希望を見出しました。
建長寺の道場の所作というのは、非常に厳しく規定されていて、1年目で覚えることはなかなか難しいです。ただ、海外のデータではこういうものもあります。ロンドン大学のフィリップ・ラリー博士が監修された研究において、私たちが習慣を定着させるのにかかる時間というのが、平均値として出されているのです。これは学生さん100人ぐらいを集めて、平均どれくらいの期間、何日ぐらいで習慣が定着するかというのを調べたところ、大体18日から254日と書かれていたのですが、その全ての平均をトータルすると66日間なんですね。習慣を定着させるのに効果的な時間としては大体2、3ヶ月くらいなのではないかということが分かりました。実は寺子屋ブッダの「心と体の健康塾」の取り組みも、数ヶ月間やっていただけるといいなという思いでつくっているので。その点は合致するかなと思ってちょっと嬉しかったです。

川野泰周

それから、もう一つ。今度はワシントン大学のヘンディー・ローディンガー先生たちが行った研究では、習慣化をさらに強化させる方法として、「コミットメントリコール」と、「パブリックコミットメント」という2つの要素が大事だと言っています。「コミットメントリコール」というのは、最初の動機付け、最初に掲げた目標に対する思いを、何度も確認していくということ。何度も「自分は何のためにこれをやっているのか?」というところに立ち返って、当たり前のようにやっているその行為の意味を、もう一度思い出してみる。というのが「コミットメントリコール」なんですね。「パブリックコミットメント」というのは、今の自分自身の日々の習慣化の過程の、どの辺の道のりにいるのか。どれくらい到達できているのか、というのを自分なりにコミュニティの中で、誰か他の人に伝えることを、「パブリックコミットメント」と言うんですね。この2つができている人の習慣化ってすごく強いそうなんです。そういう意味では、こうやってよき仲間と集まる場所で一緒に何かをするということは、すごく大事なんじゃないかなと思うんですね。

編集・構成 遠藤卓也

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