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サイエンスで紐解く寺子屋活動 #2 お寺のお勤めに秘められた驚きの効果

この連載では、お寺という存在自体、そしてお寺で行われるヨガや坐禅、伝統文化の体験などが、人の心にどのような影響を与えるのか。精神科医であり禅宗(臨済宗)の僧侶である川野泰周氏に脳科学や心理学的などサイエンスの観点からお話を伺う。第2回目は、お寺のお勤めとして行われる「掃除」「食事」「読経」が心身に与える影響や効果について。

2018.06.29 FRI 06:53
構成 島田ゆかり 
PROFILE

川野泰周(かわのたいしゅう)

臨済宗建長寺派林香寺住職/RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長

2004年慶応義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院精神神経科、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より大本山建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行を行った。現在は寺務の傍ら精神科診療にあたり、マインドフルネスや禅の瞑想を積極的に取り入れた治療を行う。またビジネスパーソン、看護師、介護職、学校教員、子育て世代の主婦など、様々な人々を対象に講演・講義を行っている。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)、『あるあるで学ぶ余裕がないときの心の整え方』(インプレス)などがある。精神保健指定医・日本精神神経学会認定専門医・医師会認定産業医。

■お寺の修行の根底には「今に打ち込む」という精神がある

仏教にはさまざまな宗派がありますから、修行の内容やお寺でのお勤めもそれぞれだと思います。声明に重きを置いたり、念仏や題目に重きを置く、行に重きを置くなど、それぞれの宗派で修行やお勤めのスタイルがあります。しかし、いずれも根底には「今に打ち込む」という精神があり、それは日本仏教のいずれにも包含された重要なファクターであると思います。

昨今、精神疾患に対する心理療法やビジネスパーソンの心のトレーニングとして世界的に注目されている「マインドフルネス」は、日本仏教の禅が基となっています。今この瞬間に一所懸命に取り組むという禅の基本姿勢を、心理学や脳科学の分野で紐解いたマインドフルネスの登場によって、仏教的思想が世界中の人に理解される時代を迎えつつあります。

マインドフルネスの定義には、それを扱う分野によって様々な表現のされ方がありますが、学術分野でよく用いられる概念としては、「今この瞬間の体験に意図的に注意を向け、それによって生じた感覚や思考に対して良し悪しの判断をせず、ただ受容すること」という表現が適切です。つまり、今自分が感じている体の感覚(目で見て、耳で聴いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、肌で感じて、という五感すべて)と、心の感覚(感情、思考、気分といった心に生じるものすべて)を、ありのままに観察し、それがどのようなものであったとしても、批判したり、良いとか悪いとかの判断をしたりせずに受け止めるという「心のスタンス」を、マインドフルネスという言葉は示しているのです。

ここでは私が属する臨済宗建長寺派の禅寺を例に、掃除・食事・読経の意義や効果についてあえて科学的視点からお話ししたいと思います。お勤めを行う僧侶はもちろんですが、一般の方がお寺でこれらのことを体験しても、心を調える効果は十分に期待できることを、サイエンスが解き明かす時代といえるでしょう。

■掃除がもたらす脳と心の関係

掃除はお寺のお勤めに欠かせないものです。(もちろん、家庭でも会社でも掃除は大事ですが)。この掃除という行為、気持ちだけでなく脳もスッキリさせる効果があります。それはなぜなのでしょうか。

人間は、視覚から入ってくる情報でたくさんのことを処理しています。目の前が散らかっていると脳のセンサーは常に色んなものを認識し続けなければなりません。気が散りやすく、マインドワンダリング、つまり心ここにあらずの状態になっています。そして、脳で処理しなければならない情報が多すぎるため、脳疲労を起こします。マインドフルネスの逆ですね。これは、集中力の低下や疲れ、うつ症状にもつながっていきます。

脳疲労を起こさないためには、脳のデフォルト・モード・ネットワーク(以降DMNと表記)を活性化させ過ぎないことが鍵。DMNは、健常人の誰もが有する、ある脳活動のネットワークの名称で、それ自体が悪いものではありません。「デフォルト」という言葉が示すように、この機能は脳の「初期設定状態」を担当しています。つまり特に何もしていない時から活動している脳内ネットワークで、周囲からの刺激に備えるセンサーの役割があります。DMNが働いているからこそ、たとえば不意に「川野君」と声をかけられた際、それに気づき、「はい?」と即座に反応することができるわけです。

では、どういうときにDMNが過剰になってしまうかというと、目の前に見える景色が物で溢れ、散らかっているときや、たくさんのタスクを同時にこなさなければならない状態のとき。こういう状態は、DMNがどんどん活性化してしまい、脳のエネルギー源であるグルコースを大量に消費し、脳の燃費効率が悪くなります。脳内のエネルギー消費の少なくとも6割は、このDMNで起きているとされており、これが過剰に活性化すると疲れてしまうわけです。また、「幸せホルモン」と呼ばれる脳内伝達物質(脳内ホルモン)であるセロトニンの不全状態も引き起こします。さらに、こうしたマルチタスク状態で疲弊した脳においては、「脳由来神経栄養因子」またの名をBDNF(Brain-derived neurotrophic factor)の出る量も少なくなります。BDNFは神経を再生、成長させるといった能力があり、中枢神経が何らかのストレスで傷ついたとしてもBDNFによって修復されるのですが、BDNFが働かくなったり、不足したりすると、神経が傷ついたら傷みっぱなしに。そうすると脳は正常な作用ができなくなります。近年の有力な学説では、セロトニン不足とBDNF不足でうつになるという発症メカニズムが支持されているのです。

さて、掃除の話に戻りましょう。人間が一度に発揮することのできる注意力には限りがあることが分かっており、これを「注意資源」と呼んでいます。散らかった部屋を眺めていると、色々な物に同時に注意を向ける状態となってしまい、注意資源をすぐに使い切ってしまうのです。だからこそ、脳疲労を起こさないためには、「視覚情報をシンプル化」することが肝要です。言い換えれば、そこに向ける「注意の量」を減らすことに大きな意味があるのです。うつ症状のある人のリハビリでも、掃除や整理整頓は初期に行われるトレーニングで、改善に大きな成果を上げています。

もうひとつ、掃除が心のケアに有効な作用があります。それは、自分でその空間をきれいにすることができた、という達成感を得ることで「自己肯定感が上がる」ということ。現代社会は仕事が細分化され、自分が行っていることの成果や達成感が得にくい社会です。例えば農作物を育て、収穫して人の手に届け、おいしいと喜ばれる。こういった、実感しやすい達成感があまりないのが現状です。ところが、掃除は自分の手を動かすことで、目に見えてその場所がきれいになっていく。私はよく坐禅会の前後に、皆さんと掃除を行います。それは、場を清める意味もありますが、「自分自身で、これから坐禅をするための場所を調えることができた」という達成感で、自己肯定感を得る効果があるからなのです。

■食事に学ぶ、思いやりのデザイン

禅寺の修行道場では、食事(粥座 しゅくざ)も大切な修行のひとつ。料理番(典座 てんぞ)はおかゆが煮えていなかったり、冬場なのにぬるかったり、夏場なのに熱々で出したりすると、とても厳しく注意されます。典座の役割は、他の修行僧がいかに修行に専念できるかを陰でサポートすること。これは「陰徳」という修行です。修行僧の中で、典座がもっとも崇高な仕事と言われるほどです。陰徳は見返りを求めるものではありません。修行僧がおかゆを食べて元気をつけて、坐禅の修行に集中することができれば、それで満足するのが典座の精神です。「おいしかったよ」と感謝されなければ続けられないというのは、典座の精神とはいえません。つまり、料理を作るということは、陰徳の修行であり、それに徹する自分に慈悲を向ける行為でもあります。セルフコンパッション(自らを慈しむ心のありよう)が育まれるわけです。

また、周りの人に対する配慮も厳しく注意されます。建長寺など臨済宗の修行道場では、食事に際してご飯やみそ汁を給仕係の修行僧から受け取るとき、「袖押さえ」という作法があります。これは他者への思いやりを育むものです。粥座では、全員が横一列に並んで飯台看(はんだいかん)という給仕係から順に、持鉢にお粥をよそってもらいます。その際に、手を伸ばして自分の鉢を飯台看に渡すのですが、袖の長い雲水衣を着ているため、どうしても台の上に並んだ他の鉢に触れてしまいそうになります。そこで決して持鉢を倒さぬよう、両隣の人がさっと袖を押さえるという決まりがあるのです。禅寺の修行においては、こうした行為の意味を懇切丁寧に言葉で教えられるわけではありませんが、何年も修行を続ける中で、おのずと一つ一つの行為に巧妙にデザインされた「思いやり」に気付くのです。食事という行為も、一挙手一投足に集中していないと正しく実践できません。ほかのことを考える余裕はない。完全にマインドフルな状態です。そうすると一口のごはんがとてもおいしいわけです。

さらに、食事にはむさぼりを捨てる意味もあります。道場では、食事を食べ始める前に、生飯(さば)を取るという修行があります。お粥でも白飯でも、配られた米を箸の先で7粒ほど取り分け、飯台の端に置きます。飯台看はこれを回収し、裏山の木の切り株の上に置くのです。自分が食べる前に、まずその一部を自然に返す、鳥獣に施すというものです。自分は一人で生きているのではないということ、仏教では縁(えにし)と言いますが、すべての縁の中で自分が成り立っていると感じることができます。命に対して感謝の念を持つことは、自分のことを俯瞰的に感じることができるため、命の連鎖の中にいると知ることになる。こうした気づきは、自己肯定感にもつながります。食事にも自利利他の精神が組み込まれ、食べ物とそれを育む大自然、食事を供養してくれた在家の人たち、さらには共に修行をする仲間たちにも、感謝をすることで自己肯定感を上げていくことができる。お寺のお勤め、修行とは、実によくできていると実感せざるを得ません。

■読経にあるフロー状態とは

一定の声量で息継ぎを少なく、少しでも長い間音を出す読経。一定の息を出し続けるという行為自体がマインドフルネスです。そして、お経の音読は、抑揚のない一定のリズムが自分の耳から音が入ってくるので「超集中」といわれるフロー状態にもなりやすい。瞑想を主体としたヨガの一部の流派ではマントラを唱てトランス状態になる人もいますが、読経にもある意味共通する要素があると思います。耳で聴くのがよいなら歌でも同じではないか、と思いますが、どうもそうではないようなのです。その曲調に「楽しいメロディー」や「悲しい旋律」といった意図的なトーンが込められているため、情動が揺さぶられてフロー状態は得られにくいのです(もちろん、全身全霊を込めて音楽に向き合っている演奏家や歌手の場合はこの限りではありません)。これに対し、お経のように旋律がなく、一定のリズムで続いていくものは、楽しいとか、悲しいとかいった感情に縛り付けられず、自らの意思で今と向き合うことができます。「今、自分が声を出している」という、目の前の現実だけに意識を向けられる。意味などの価値判断にとらわれない、非常に優れたマインドフルネス実践法とも言うことができるでしょう。ただし、そのお経に書かれた漢字一つ一つの意味を無視するということではもちろんありません。日々、一心に読経を続けてゆくことで、だんだんとその言葉に込められた意味が心にスッと入ってくるような体験もまた、マインドフルに受容することが大切です。先ほど、トランス状態と共通の要素をお経が持っていると述べましたが、あくまでそれは「時としてみられる」心の現象です。トランス状態になるために唱えるという目的意識の強い向き合い方は、お経の本質ではありません。ただ一心に、声を大きく、長く発し、一字一字を正しく読むことに注力してこそ、本来のお経の価値が生まれると私は考えます。

また、修行道場では20人近くで読経を行います。この際に重要なのは、息継ぎのタイミング。お経が途切れてしまわないように、人と違う箇所で息継ぎをしなければなりません。「衆縁和合」といって、すべての人と一緒に修行をしているわけです。すべての物は、寄り合い 成り立っている。お互いをサポートする形で、お経を読まなければいけません。息継ぎのタイミングがかぶらないように、お経を読む中にも他人を思いやる行為が組み込まれているのです。

寺子屋活動を行う際、読経や坐禅、食事、掃除など、さまざまなコンテンツがあると思いますが、どんな行為にも学びがあり、身心を調える効果があります。ただなんとなく仏教体験をしてもらうだけでなく、それぞれの行為が有する意味と効能をしっかりと伝えていくことができれば、お寺の持つ魅力はさらに高く認識されるようになるのではないでしょうか。

昨今、お寺を舞台として著名人の講演会、落語、ヨガ体験、絵画や書道の個展、さらにはアーティストによるライブ演奏と、斬新な催しの数々が、若い世代の和尚さんを主体としてなされるようになってきました。こうした活動を通して、かつて地域の中心であったお寺に、様々な世代の人たちが再び集まるようになったことは、これからの時代におけるお寺の素晴らしき在りようであると感じます。と同時に、伝統ある寺院を守る立場にある私たち僧侶が今一度認識すべきことは、誰もが新しいことを行わなくても、長らくお寺に伝わることを丁寧にわかりやすく、一般の方に伝えてゆくことの、大きな価値なのではないでしょうか。

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