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サイエンスで紐解く寺子屋活動 #1 お寺という「場」が、人の心に与える影響とは

この連載では、お寺という存在自体、そしてお寺で行われるヨガや坐禅、伝統文化の体験などが、人の心にどのような影響を与えるのか。精神科医であり禅宗の僧侶である川野泰周氏に脳科学や心理学的などサイエンスの観点からお話を伺う。1回目は、お寺という「場」について。人はお寺に来ると、なぜ落ち着き、心が調うのかを考える。

2018.05.09 WED 10:00
構成 島田ゆかり 
PROFILE

川野泰周(かわのたいしゅう)

臨済宗建長寺派林香寺住職/RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長/一社)寺子屋ブッダ理事

2004年慶応義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院精神神経科、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より大本山建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行を行った。現在は寺務の傍ら精神科診療にあたり、マインドフルネスや禅の瞑想を積極的に取り入れた治療を行う。またビジネスパーソン、看護師、介護職、学校教員、子育て世代の主婦など、様々な人々を対象に講演・講義を行っている。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)、『あるあるで学ぶ余裕がないときの心の整え方』(インプレス)などがある。精神保健指定医・日本精神神経学会認定専門医・医師会認定産業医。

現代人の“心の課題”は深刻だ

私の患者さんは、人間関係のストレスや、環境のストレスからうつ傾向が強くなっている方が多いのですが、気分が落ち込むだけでなく、思考力の低下や睡眠障害、食欲の低下までも引き起こしています。よく、「真面目で完璧主義の方がうつ傾向になりやすい」と言われていますが、実際に診療していると、さらに根本的な原因と思われるある共通した傾向を感じます。それは、「自己肯定感の低さ」です。自己肯定感とは自分を過大評価するということではなく自分の存在をそのまま肯定できる感情のこと。自己肯定感が低い人は、自分はダメだと思い込んだり、褒められてもそれを疑ったりして、自分を否定しがちです。そのため、うつ傾向になりやすく、幸福感も得られにくいのです。

ここに、内閣府が調査した、「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」の一部をご紹介します。調査対象は日本,韓国,アメリカ,英国,ドイツ,フランス,スウェーデンの7各国。各国、満 13 歳から満 29 歳までの男女から回答を得たものです。(平成 25 年 11 月から 12 月までの間に実施)

興味深いのは、「自分自身に満足している」、「自分には長所があると感じている」という問いに対して、日本人の「そう思う」という回答がダントツで少なく、「そう思わない」という回答がダントツで多い結果になっていることです。

これは、ひとつには幼少期の育てられ方に原因が挙げられます。「空気を読む、皆と同じに」という日本の教育に起因するところは大きいでしょう。他人が設定した目標を達成することだけを求められ、自己決定権が与えられなかった世代と言うことができるでしょう。
もうひとつ自己肯定感を阻害する要因として知られているのは、「学習性無力感」です。先輩や上司といった、自分よりもヒエラルキーの上位にいる人に認められることなく、否定され続けると「どうせ無理」と考え、努力すら行わなくなってしまう心理的な状況です。就職活動で何十社と落ち続ける体験も、学習性無力感を生む原因になり、その結果自己肯定感の低下を招いていると考えられます。さらに、現代の仕事は細分化され、自分が何に役立っているのかわかりにくい。たとえば農作物を育て、人に届けてありがとうと言われるような、目に見える達成感や人からの感謝を得にくくなっているのも、自己肯定感が低くなる原因と言えるでしょう。こうしたことが原因で、「自己肯定感」が低下すると自分の存在自体を肯定することができず、自分を追い込んでしまいます。その結果、うつ傾向に陥っていることに気づけず、スパイラル的に心のバランスの悪化を招いてしまうのです。

こうした現状の中、お寺が現代人の心の健康に寄与できるとしたら、どのような根拠が考えられるでしょうか? 私の住職としての日々の活動に加え、精神科医としての診療の経験も踏まえて、考察してみたいと思います。

お寺に行くと、人はなぜ「心が落ち着く」と感じるのか

お寺にいらっしゃる方から聞こえてくるのは「なんだか落ち着く」という感想です。なぜ、お寺という「場」は人の心を落ち着けるのでしょうか。そこには、様々な理由が挙げられそうです。

そこにあり続ける価値
心の健康を害してクリニックに来る患者さんにとって、心を立て直していくために必要な要素の一つに「自分の起点になる場」「いつでも本来の自分に立ち戻れる場」を得ることが挙げられます。しかし、最近の街並みは変化が早く、幼少期を過ごした場所を、懐かしがる暇すら与えてくれません。周辺環境の大きな変化は、心にも混乱を招くことが知られています。だから人は自分にとって「変わらない場所」を持っていることが大切なのです。お寺はその場所にあり続ける。「動かないもの」であり、いつでも変わらぬ姿でそこにある。これが、人間には心の拠り所として大きな安心感を与えます。また、お寺はとても長い時間を内包していて、そこにたたずんでいるだけで、悠久の時の流れに身を任せることの心地よさがあります。長い歴史のなかに自分がいることを俯瞰すると、それが「命のバトン」を受け継いできた自分の存在を客観的に知ることにつながり、自分の存在を肯定することができるのです。また、お寺の建物の裏に広がるお墓を眺めてみると、自身の先祖の存在を感じずにいられません。自分が今ここに存在していることを、とても客観的に感じられる「自分の起点になる場」「いつでも本来の自分に立ち戻れる場」なのです。

内観と客観視
自己肯定感を上げていくのに必要な要素として、「メタ認知」があります。人間が自分の思考や行動そのものを俯瞰的、客観的に把握し、認識する能力です。坐禅やマインドフルネスで得られる「一切の評価、判断を挟まない気づきの状態」はメタ認知を高めることに効果があることがわかっています。ただし、様々な物事に思い悩んで心がいっぱいになっている人、うつ状態で悲観的な想念に支配されてしまっている人、さらには統合失調症などの精神疾患により妄想が心を占拠している状態にある人には、坐禅やマインドフルネスなどの瞑想法が不向きな場合があります。このような方たちは、心に非常に大きな負荷がかかっているため、自分をメタの視点で見る、つまり客観視することが難しく、瞑想によってかえって自分の辛い感情に入り込んでしまい、負の想念が膨らんでしまうからです。そういう場合は、集中の向かう先を外に置く。たとえば仏様に手を合わせることで自分の外側の対象に穏やかな注意を向け、自分の内側に渦巻くネガティブな思考の連鎖を断つことができるのです。ここで大切なことは、観音さまがたたえる慈悲に満ちた微笑や、お地蔵さんの愛らしく純朴な顔、さらにはお不動さまの迫力に満ちた顔貌と、仏像の表情は全て、人間の心が持っている様々な側面を形象化したものだということです。お寺で仏像に手を合わせる人たちは、仏さまを拝む行為を通して、知らず知らずのうちに自分自身の存在と向き合い、自己受容を深めてゆくことができるのです。このようにして、心より余裕が持てない人たちにとって、普段できない客観性を唯一作れる場所が、祈りの時間というわけです。だからこそ、祈りはあまねく人に広まったのでしょう。すがるものがあるという安心感を得ることは、心を調えるのにとても重要です。心身を鍛錬し、本来の自己を見つめ直したい人たちが、禅を実践するのと同じ意味があるのです。

平等性とよい転移
お寺は誰にでも平等に開かれた場です。病院の場合「その件は、こちらの病院では受け付けていません」と断られるケースがありますが、お寺は来るもの拒まず、去る者追わずという精神に基づいた場。たとえば坐禅会などでお寺に集う人々は、社会的な関係性を引きづっておらず、地位や名誉から離れた状態でいることができます。何かを評価されることもありません。そのままでいい、評価や価値判断をしないマインドフルな場所で、人は癒しを得られます。こうした場所をある社会学者はサードプレイスと言呼びました。その時間を過ごすだけでも、自己肯定感が高まり、自身を卑下する気持ちも取れていく。自己肯定感は、自己否定しないことで育つものなのです。また、人々のオープンマインドに触れると、人間はその人自身も大きな心になっていくことがわかっています。精神医学用語に「転移」という言葉があります。幼少期などの過去に、親や重要な他者との関係で抑圧されてきた感情が、治療者など別の対象に向けて出てくるといった現象を指し、恨みや依存など、良くない反応として使われることの多い言葉ですが、実際には「良い転移」というものも存在します。これを専門的には、「陽性転移」と表現します。人から受けた思いやりや優しさが自分に伝播して、自身が変わっていく。するとそれを、仕事や家庭など他の場面においても、他者への優しさとして表出することができるようになります。例えば、坐禅会が終わって帰るときに、人にぶつかられてもイラっとしないような体験をするわけです。

感謝という体験
人は、感謝に触れると、どのような変化が起きるでしょうか。幼少期に愛情に満たされなかった子どもは、自己肯定感が著しく低い傾向にあります。しかし、満たされない心は「感謝」という行為によって、後からでも満たし直すことができるのです。それを証明したのが、クリスティン・ネフとクリストファー・ガーマーというアメリカの心理学者で、セルフコンパッションの権威と言われる2人です。感謝とは、他者の存在がなければ成しえません。感謝するという行為により、誰かに何かをしてもらっているということを認識することができるようになります。それが、自分のカラカラだった心のコップに水を満たし直す作業になるのです。感謝をきっかけに、自分に優しくすることができるようになった人を、私はお寺でもクリニックでも、たくさん見てきました。

お寺に来て仏様に手を合わせ、あるいは坐禅などで自分に丁寧に向き合う時間を持つ。そこにいるだけで、悠久の時の流れの中に存在する自分の在りようを客観視し、メタ認知を体験する。集う人々から良い影響を受け、あらゆるものに感謝をすることにより自分を満たし直すことができる。人はお寺での体験で、現代人が失いつつある自己肯定感を高めていくことができるのです。

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