検索

語り合おう。ひと、まち、お寺。

お寺のコミュニティの本質を問い直す #2 大きなコミュニティから居場所としてのコミュニティへ

2018.07.20 FRI 12:57
執筆 薄井秀夫
PROFILE

薄井秀夫(うすいひでお)

株式会社寺院デザイン代表取締役

昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部卒業(宗教学専攻)。中外日報社、鎌倉新書を経て、平成19年に株式会社寺院デザインを設立。お寺のコンサルティング会社である寺院デザインでは、お寺の運営コンサルティング、運営相談を始め、永代供養墓の運営コンサルティング、お寺のエンディングサポート(生前契約、後見、身元引受等)、お寺のメディアのサポートなどを行っている。近年は、葬式仏教や終活といった視点でお寺を再評価し、これからのお寺のあり方について提言していくため、現代社会と仏教に関心の高い僧侶らとともに「葬式仏教価値向上委員会」を組織して、寺院のあり方について議論を続けている。

居場所としてのコミュニティ

前回、「コミュニティもどきは悪くない」というテーマで、伝統的な地域コミュニティの復活をと語るお寺も多いが、コミュニティ未満の、サードプレイス的なあり方がお寺に相応しいのではないかと提言させていただいた。このあり方を「コミュニティもどき」と表現したわけであるが、「もどき」という言葉がちょっとマイナスの響きがあるので、誤解をされた読者もいたようである。
「コミュニティもどき」と表現させていただいた人間関係のあり方は、これからの時代、人々が人間性を取り戻す上で、大きな役割を果たしていく可能性がある。

「コミュニティもどき」では、人はいろんなしがらみから解放され(コミュニティは、しがらみそのもの)、必要な時はいつでも受け入れてくれて行きたくない時は行かなくてもよく(コミュニティは、必要不必要にかかわらず関わらなくてはならない)、家とか仕事とかでの社会的な地位や役割から離れて(コミュニティは、社会そのもの)、それでいて人とのつながりを感じられる。

近年お寺では、音楽や落語のようなエンターテイメント、ヨガやマインドフルネスのような自己啓発的なもの、グリーフケアの集いや認知症カフェのような心の安らぎに関わるものなど、様々な取り組みがなさるようになってきた。
こうしたイベント的な活動を通して生まれる関係性は、伝統的な地域コミュニティとは異なるものであるが、人のつながりであるという意味では共通の部分も多い。

こうした関係性のことを「コミュニティもどき」と表現させていただいたが、言い方を変えれば「居場所としてのコミュニティ」と言ってもいいだろう。

お寺が、「コミュニティを再生する」という言葉を使う時、人によってコミュニティのイメージはかなり異なるが、この「コミュニティもどき」である「居場所としてのコミュニティ」を目指すべきだと思うのである。それは、あまり濃密でないからこその脱力感がそこに存在するからだ。伝統的なコミュニティの関係性の深さは、時にはストレスにもなるからである。日常とは関係の無い人たちとのつながりだからこその安らぎというものもあるのだ。

ただ、こうした居場所としてのコミュニティは、伝統的なコミュニティのように全員参加のコミュニティではなく、流動性も高い。どうしてもそこに参加しない人のほうが多い集まりである。つまり地域の大部分の人にとっては、あまり関係の無い存在でもある。

これは、現代の居場所としてのコミュニティの宿命である。全員参加は不可能であるし、そもそも全員参加といった方向性は目指してはいない。

「そんなのに意味は無い」という声も聞こえてきそうであるが、そもそも現代において、伝統的な地域コミュニティを復活させることが不可能に近いということを忘れてはならない。コミュニティの再生を目指すならば、以前のコミュニティを再生するのではなく、現代的な形での再生を模索するべきなのだ。

もちろんそうした「居場所としてのコミュニティ」における人のつながりは、とても狭い範囲でのつながりではある。しかし現代では、もはや「大きなコミュニティ」が再生されることはない。だからこそ、たくさんの「居場所としてのコミュニティ」を積み重ねていくしかない。

それは必ずしもお寺が中心である必要は無い。NPOだったり、学校だったり、PTAだったり、その他の団体だったり。人々の生活環境や趣味嗜好性によって、関わってもらえればいいのである。

グリーフケアの集い

現代においてお寺が行っているイベントの大半は、この「居場所としてのコミュニティ」を目指していると言える。
ただ、目指しているものの、現実としてはなかなか「居場所としてのコミュニティ」の実現まで達することができないというのがほとんどだろう。イベントを行って、人が集まって、一見成功したように見えても、その後、特に人の縁が広がることもなく、継続性も乏しく、結局何も変わらないというお寺が多いのである。

せっかく苦労をしても、なぜ、何も変えることができないのだろうか?

はっきりとしたミッションやヴィジョンを持たずに、今まで通りの活動では駄目だからとか、地域に開かれるべきだからとか、曖昧な方向性で活動を始めていることに原因があることが多いのではないだろうか?

次に挙げるひとつの実例を通して、更に深く考えてみたいと思う。この実例は、私が知りうる限りでは、お寺における最も理想的な「居場所としてのコミュニティ」を実現している。

東京都世田谷区にある真宗大谷派の存明寺(酒井義一住職)というお寺での活動である。私が注目するのは、このお寺で行われている「グリーフケアの集い」という会である。
人は誰しも、大切な人を亡くす経験を持っている。ただ、人によって、あるいは状況によって、大切な人を無くした悲しみから立ち直れない人がいる。そうした方の心のケアを行うための集いである。

集いは3ヶ月に一度、主に土曜日に行われる。参加者は、だいたい10人から20人程度。檀家さんや、地域の人が中心であるが、中には遠方から訪れる人もいる。
当日、参加者は、まず本堂に集まる。酒井住職が導師となって、短めの法要が行われる。無量寿経の一節でもある嘆仏偈を唱えるが、中には声に出して唱える参加者もいる。続いて、酒井住職による法話が行われるが、これもどちらかと言うと短めである。

この集いの柱となるのは、続いて行われる「語る時間」である。会場を畳の広間に移し、参加者は、ロの字に並べた机にぐるっと座る。
そしてひとりずつ、大切な人を亡くしたこと、自分自身の悲しみ、他の家族との受けとめ方の違い、その後の日々の過ごし方などについて、体験を語ってもらうのである。
全員に順番が回ったら、最後に、音楽を聴く時間である。曲は、人生を考えさせる曲、死や別れを考えさせる曲など、回によって様々なものが選ばれる。こうして音楽を味わって、感想などを言い合い、解散である。

話をしたくない時は話さなくていい場所

この集いの柱である「語る時間」は、進行役の指示に従って、ひとりづつ、語ってもらうのであるが、この時、いくつかの約束事がある。

1 話を聞くことを大切にします。
 (あたたかな雰囲気の居場所を作りましょう)
2 自分を語ることを大切にします。
 (死別のこと、最近のこと、何を語ってもいいのです)
3 聞いたことは外部にもらしません。
 (相手のことを大切にしたいからです)
4 発言を強要しません。
 (話したくないときは話さなくてもかまいません)
5 悲しみを比べません。
 (いたみが一人ひとり違うことを大切にします)
6 くりかえし同じことを語ってもいいのです。
 (語りながら振り返ることを大切にします)
7 時間を大切にします。
 (お話の時間を独占しないようにしましょう)

特に4の「発言を強要しません」というのは、集いに来ることはできても、自らの体験を話すのはつらいという人もいるので、そうした人には、人の体験を聞くだけでいいです、ということである。他の人の体験を聞くだけでも、「この人のお話し、私といっしょ。同じ気持ちなんだ」などと感じ、充分に心の癒しには繋げることができるという考えである。

語ることによって、それまで自分の中に閉じ込めておいた悲しみをはき出すということと同時に、他の人の悲しみを受けとることを通して、自分自身の悲しみを受け入れ、癒していくきっかけにしていくこともなされているのである。

参加者は、一回で来なくなる人もいれば、何回も続けて来る人もいる。続けて来る人の中には、だんだん悲しみから立ちなおって、「今度は自分が助ける番だ」とスタッフ側に回る人もいる。

最初は、住職が中心となって行ってきたこの集いも、今ではボランティアスタッフが中心になって運営している。平成十九年に始められたこの集いは、既に四十回以上開催され、延べ六百人以上が参加したことになる。

しがらみからの解放

「居場所としてのコミュニティ」という視点から、存明寺で行われているグリーフケアの集いを見ると、冒頭で挙げた4つの要素が全て満たされていることに気づく。

1 人はいろんなしがらみから解放され、
2 必要な時はいつでも受け入れてくれて行きたくない時は行かなくてもよく、
3 家とか仕事とかでの社会的な地位や役割から離れて、
4 それでいて人とのつながりを感じられる。

更には以下の4つの特徴を挙げることができるだろう。

5 目的がハッキリしている
6 運営するのは参加者
7 安心が提供される
8 この寺でなくてはならない理由がある

「5 目的がハッキリしている」というのは、この「集い」の場合、悲しみに沈んでいる人が、悲しみを受け入れていくきっかけをつくるということであろう。

例えば「地域に親しんでもらう」というのは、聞こえはいいが、目的としては曖昧である。そもそも地域に親しんでもらうのは、目的ではなく手段である。地域に親しんでもらって、何を実現するかが語られていない。
目的がハッキリしていないと、続けているうちに、何のためにやっているかわからなくなって、いつしか行事を取りやめるということになりがちだ。

「6 運営するのは参加者」ということであるが、当初は、住職が中心となってこの「集い」を運営していたが、だんだんと、お寺の青年会の人や、この「集い」を卒業した人が、ボランティアとして運営するようになっていく。
関わる人は、とてもやり甲斐を感じているし、だからこそ、継続性が生まれる。悲しみを癒しに来る人も、それをサポートする人も、この「集い」に「居場所」を感じているのである。

「7 安心が提供される」は、言わずもがなであるが、この「集い」は安心を目的に運営されている。「居場所としてのコミュニティ」は、安心無しにはなりたたないのである。

そして、「8 この寺でなくてはならない理由がある」。
この存明寺の「集い」は、プログラムの素晴らしさもあるが、それ以上に、住職はじめ関わる方々の優しさや暖かさで成り立っている面もある。そうなると、一度関わると、他の寺に行こうとは考えない。そもそも同様の会を行っているお寺が無い。仮にあったとして、存明寺の「集い」に参加した人は他の寺には行かないだろう。「この寺でなくてはならない」のである。

ここでは五つの特徴を挙げたが、こうしたことが「居場所としてのコミュニティ」を成り立たせている。もちろん、これら全てが揃わないと、「居場所としてのコミュニティ」が成り立たないというわけではない。

しかし、せっかくお寺でコミュニティ活動を行おうとするならば、こうした要素をひとつひとつ実現していくべきであろう。イベントや行事は、それを行うことだけでなく、行った後が大切である。打ち上げ花火だけでは、やる意味は無い。その意味では、各方面から「すごいね」と言われるような派手な行事よりも、小さくても、人の心に響く活動のほうが、お寺に相応しいのではないかと思う。

関連記事

姉妹サイト まちのお寺の学校おすすめイベント