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お寺のコミュニティの本質を問い直す #1 コミュニティとは何か?

2018.05.09 WED 10:00
執筆 薄井秀夫
PROFILE

薄井秀夫(うすいひでお)

株式会社寺院デザイン代表取締役

昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部卒業(宗教学専攻)。中外日報社、鎌倉新書を経て、平成19年に株式会社寺院デザインを設立。お寺のコンサルティング会社である寺院デザインでは、お寺の運営コンサルティング、運営相談を始め、永代供養墓の運営コンサルティング、お寺のエンディングサポート(生前契約、後見、身元引受等)、お寺のメディアのサポートなどを行っている。近年は、葬式仏教や終活といった視点でお寺を再評価し、これからのお寺のあり方について提言していくため、現代社会と仏教に関心の高い僧侶らとともに「葬式仏教価値向上委員会」を組織して、寺院のあり方について議論を続けている。

安易に語られるコミュニティという言葉

近年、「お寺はコミュニティの中心だった」「お寺が中心となって、コミュニティを再生していくべき」ということが、語られることが多い。この文脈で語られるコミュニティは、戦後すぐくらいまで日本のどこに行ってもあった伝統的な地域コミュニティのことであろう。

ひと昔前の地域コミュニティは、隣近所助け合いの感覚が当たり前で、お互いがお互いの人となり、家族、仕事、人間関係など、あらゆることを理解し合っていたと考えられている。

なぜこうした濃密な関係性が生まれたのかというのは、農業や漁業などがベースにある社会では、日常の生活や仕事において、助けたり助けられたりというのが必要で、人はコミュニティ無しには生きていけなかったという大前提がある。

しかし日本人の多くが会社員となる社会になっていくと、そうしたコミュニティは地域から会社に移っていく。そして終身雇用が崩れた現代では、会社コミュニティですら、関係性が弱くなっている。必要があって、共通の目的があって、人同士が結びついていたのであるが、段々とその必要性(精神的な必要性は無くならないが)が無くなってきたのが、コミュニティが弱まってきた最大の理由である。

また一方で多くの人は、濃密なコミュニティをめんどうなものと考えていたのも事実で、その共通の目的が無くなった時、多くの人は「めんどうなコミュニティ」を自ら離れていったことも忘れてはならない。

どちらにせよコミュニティは、近くに住んでいる者同士の間に、自然発生的に生まれるのではなく、共通の目的──生活、農作業、あるいは会社での仕事など──があって、初めて生まれるのである。

お寺がコミュニティをつくったわけじゃない

また「お寺はコミュニティの中心だった」と言われることが多いが、実際は、本当の意味でコミュニティの中心的存在だったわけではない。お寺が地域の潤滑油的な役割を果たしていたのは事実であるが、コミュニティを運営する立場ではなく、どちらかと言うとお寺のほうがコミュニティに依存した存在であった。つまり、お寺があってコミュニティが存在していたのではなく、コミュニティがあってお寺が存在していたということである。

確かに過去においては、檀家組織が強いコミュニティとなっていたように見えるが、それは地域コミュニティがベースとなっていただけである。檀家コミュニティは、地域コミュニティの一部に過ぎない。

むしろ地域コミュニティの基盤が無くなった現在の檀家組織のほうが、檀家との本質的な関係性があらわれているのかもしれない。

また永代供養墓を運営しているお寺の中には、申込者同士が交流するようにつとめているお寺も少なくない。これも「お寺が中心となって、コミュニティを再生していくべき」という考えのもとで進められている。

ただ、これもコミュニティというには関係性が弱いもので、お墓や葬儀の研究者でもある井上治代氏(元東洋大学教授)は、こうしたお墓を中心とした関係性を「ゆるやかな共同性」と表現している。その意味では地域コミュニティの裏付けの無い現代の檀家組織も、ある意味こうした「ゆるやかな共同性」であるかもしれない。

そもそも、戦後すぐくらいまであったような伝統的な地域コミュニティを復活させるのは不可能である。その意味で、現代のお寺が目指すべきコミュニティというのは、こうしたコミュニティ手前のコミュニティである「ゆるやかな共同性」なのかと思うである。

コミュニティは簡単に生まれない

お寺とコミュニティが語られる中で、近年、お寺で様々な地域イベントが行われるようになっている。数字の根拠は無いが、感覚的には、二十年くらい前に比べると、十倍以上のイベントが行われているように見える。

イベントの内容は、音楽や落語のようなエンターテイメント、ヨガやマインドフルネスのような自己啓発的なもの、グリーフケアの集いや認知症カフェのような心の安らぎに関わるものなど多岐にわたる。お寺によって、イベントによって、参加者が多かったり少なかったりするのも事実だが、そうした取り組みをするお寺が増えたことは素晴らしいことである。

ただ、イベントを行って、たくさんの参加者が集まったことで満足してしまうお寺が多いのが、気になるところである。

イベントを行えば人が集まる、人が集まればコミュニティが生まれると考えてのことだろうが、コミュニティはそんなに簡単には生まれない。もちろんそれが「ゆるやかな共同性」であっても同様である。

イベントを行ったことのある住職であれば知っていると思うが、イベントの参加者というのは、決して定着率が高くない。またそれぞれのイベントに関心があっても、お寺で行っている他の活動には関心の無い人が多い。

当たり前の話であるが、人が集ったら、その人たちとの関係性を深めるため、繰り返し繰り返しの地道なコミュニケーションが必要である。

昔の地域コミュニティを基盤とする檀家組織は、放っておいても檀家同士が勝手にコミュニケーションをしていた。いや、正確には檀家同士ではなく、地域の人同士である。もともと関係性の深い人たちが檀家になっているから、檀家同士のコミュニケーションがスムーズだったのだ。

しかし、新しいコミュニティ(あるいは、ゆるやかな共同性)をつくるためには、誰かがそこに手間をかけて耕す必要がある。もちろんそれを行うのは寺以外には無い。それに人が集まればコミュニティが生まれるというのは、あまりにも楽天的だ。

コミュニティを耕す

イベントを通して、コミュニティ、あるいは「ゆるやかな共同性」をつくるために必要なこととして次のようなことが挙げられるだろう。
(1)イベントに明確なテーマあるいは方向性がある(参加者にとって必要性の高いテーマのほうが好ましい)
(2)参加者同士のコミュニケーションを促し、お寺からも積極的にコミュニケーションをとる(カフェ形式やわかちあいの時間を取る、文書の定期的な送付を行う、会話の時間をとるなど)
(3)住職の顔が見える(いつも、そこに行くと住職と会える)

コミュニティも共同性も育てるものである。イベントも人が集まったから成功なのではなく、その後が大切だ。イベント後に、時間と手間をかけなければ、やる意味は無いだろう。それは繰り返し繰り返しの地道な作業でもある。

人が集まるからコミュニティが生まれるのではなく、コミュニケーションを重ねるからコミュニティが生まれるのである。これは檀家に対しても同様だ。檀家との間も、これまで以上にコミュニケーションが必要な時代になっている。むしろ、檀家のコミュニティすら耕すことができないのに、新しい人たちのコミュニティをつくることなどできるはずはないのである。

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